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更新:08/09/30 >>09/12/18>> 20/09/18
■形典 / ●形典へのアプローチ
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●形典へのアプローチ

(研修資料からの部分的引用です.)

はじめて自転車に乗るときは大変だ.だが,だれもが自転車に乗れることを知っていれば,成功への確信はもてそうだ.しかし,新しい学問は,確信を捨てることで始まる.先入観を捨てることで初めて見えてくることがある.恐ろしくもあるが,これほど面白いこともない.果たして形典や形譜を使いこなせるだろうか?自分でやってみる以外に方法はない.

覚悟ができれば学問への基礎的な問いかけは簡単である.「どのようにして知るか」を知ることであるからだ.
形典への意識を高めるために,以下にいくつかの観点を上げてみた.かたちを見直すためのウォーミングアップだ.

自然のかたちから

外部に対して内部をもつ球状の卵は,地上で重力に挑戦するがごとき四肢のある形態へと変容する.引力をかなめに大地との動的シンメトリーを保っている不思議な形態だ.そして,驚くべきことにその振る舞いを舞踏にまで発展させる美意識すらもちはじめるのである.

まさに地球はかたちで溢れている.視覚はそれを素早く認識し,俊敏に反応しながら,その記憶を蓄積させる.記憶されたイメージは,常に新たな視覚と照合され,次第に構成の類型化を伴いながら感情や情緒の形成を促すと考えられる.ではその構成にどのような法則や形式があるだろうか?11/09/17  isi  Page Top

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芸術・技術・科学から
かたちは様々な学問的観点として,芸術,人文科学,自然科学,情報科学,科学技術などから考察することができる.

かたちの構成の仕組みを,芸術と科学の両方の視点から,日常的な視点を含めながら見ていこう.形のリズム,シンメトリー,プロポーションとは何か?かたちの構成を音楽の楽譜のように美術の形譜として表せるのか? 

 もし,形譜が普及するとどんな楽しみが生まれ,どんな工夫ができるだろう?個々の生活における造形表現のために,どんなネットワークが生まれ,どんな技能,技術,産業が育つのだろうか?

 21世紀から始まる形典や形譜への視点は複雑でありながらも,その探求と普及は情報技術により加速される.内発的な造形表現を新たな心のよりどころとするには,単なる思い付きや新技術の消費ではなく,かたちの認識基盤に立ち返った創造的なアイディアが必要となるのである. 11/09/17  isi Page Top
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知覚・認識・行動から

 視覚を記憶し,再表現できるのは素晴らしい能力だ.真似をしたなどと言われてはなんとも心外であるが,「技を盗め」などという教え方すらあるように,高度な技ほどその伝承も困難となる.瀬戸際の奮起のためには,そんな教え方も功を奏すのだろう.学ぶこととは,単に記憶するのではなく,体得的とも言える記憶の自発的活用にある.

情報科学から見れば,学習とは入力に基づく思考(演算)結果と記憶との照合作業だ.それには,一定のプログラムと一連の“オペレーティングシステム(Operating System, OS)” が形成されている必要がある.それを可能としたのが,明確に規定された人工言語である.

もともと,動物には生き抜くための素早いパターン認識力がある.この記憶に基づく学習的判断は危険に対処する本能のようなものだが,安心・安全の中では異なった感情が働くように行動する.情操を育て,芸術の母体となる情緒を形成していくのである.そこから芸術へと至るには,多くの人生が示すように,長く多岐にわたる経験と考察が必要となる.Page Top

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文典.楽典,形典の視点から

音楽は誰もが気軽に楽しんでいるが,この音楽の文法,つまり楽典(Musical grammar)と楽譜による記述は,融通無碍であり,人間が情報処理の天才だったことを示しているし,今は,誰もがその存在を知っている.

では,日常的な自然言語の文法と語法(文典)はどうだろう?これはもちろん,誰もが学習によって天才的なしゃべり手となり,聞き手,書き手,読み手となって,何でも無難にこなしてしまう.

漢字文化は,その抽象的構成の複雑さにおいて最たるものである.コンピュータを今だにわずらわし,複雑な情報処理が必要な言語体系で,漢詩などは,視覚的にも情報科学的にも実に美しい構成をもっている!これを嗜みとする社会は,実に貴重な無形の文化遺産である.

文学には文典(文法と語法),音楽には楽典があり,初等教育から学び始める.では,なぜ造形(美術)に形典がないのだろうか?形典と形譜があれば,造形構成の仕組みを造形譜から読み取ることができ,音楽のように各自の感性による解釈を楽しく表現できるはずである.聴覚と視覚では認識方法に根本的な違いがあるのだろうか?

もちろん自然形態を記譜することもできる.いわゆるスケッチやエスキースがその役割をはたしてきたわけであるが,いま少し客観的視点を確立することで,形譜による中間的表現が定着するはずである.

 音源探査カメラというものがある.カメラ情報に探知した音源の位置情報を重ねて可視化したものだ.複数のマイクを使ったシステムで,人間の感覚より優れているようだ.人間は音だけの情報でも指向性をある程度感じ取れるのだが,視覚情報の方が精度よく確定できる.したがって,音源探査システムはカメラの画像データに音の探査データを重ね合わせて表現している.
 音楽の空間性は,音楽ホールの設計でも苦心するところであり,音楽鑑賞の重要な要素である.視覚のようにはっきりとすべての位置が感じ取れるわけではないが,回折や共振も手伝って,見えない対象も音で聞き分けることができる.

 楽器は音色を奏で,周囲の物質はその音を反射しているはずだが,眼球の網膜のように正確に発振の位置や反射の波長の分布を特定する聴覚を人はもたない.やはり音感はリニア,ノンリニアにかかわらず蝸牛管(うずまき管)による音の高低と時間軸による認識が主であり,視覚は両眼の網膜による空間的知覚に時間軸が加わった認識が主体となる.ここが記譜における抽象化の次元が異なってくる原因である.

 造形では,いわゆるスケッチやエスキースによる暗黙のルールがその役割をはたしてきたわけであるが,いま少し客観的視点を確立することで,形譜による中間的表現が定着するはずである.

自然形態の形譜は,博物学的分類形式に準じた認識で十分機能するだろう.形典の法則とは,人間の日常的な視覚認識を基にした形式を基準とするからだ.したがって,物理化学的な形成プロセスの認識とは異なるし,知覚神経システムの解析を必要とするわけではない.人の認識方法の洞察によって成される感覚的レベルでの解析となる.

形譜は,楽典と形典の摺り合わせにより,音楽とのコラボレーションのための共通言語を形成でき,また,漢詩や詩歌のような言語的抽象性によって他者と共有可能な内発的解釈の基盤も形成できるはずである. Page Top

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認識と表現(行動)から
 

人間は,誰でも情報処理の天才だ!

「誰でもできるので,別に言うまでもない…」 これが人間の情報処理能力の天才性の証である.だから,機械ごときがそれを行うと,「これはすごい!」と客観的に気づくことになる.顕著な例はロボットに見られる.人気者のロボットは不思議なほど腰が低く,礼儀正しいから,これまたすごいのだ.さぞかし躾(しつけ)に気を使ったことだろう.

 人間という天才が普通にすごいのは動きだけではない.思考力が凄まじいのである.そして現代,その思考力を更に下支えするのが,Web上への情報掲載とそれに何処からでもアクセスできるコンピュータである..

 人間の天才性に気付けば,音楽で楽典と楽譜による演奏を楽しむように,美術でも形典と形譜(造形譜)による「ものづくり」に挑む勇気が湧いてくる.そんな簡単にいくものか?…と思われるだろうが,時代は常に移りゆく.人々は,いつでもどこでも対話でき,リアルタイムな視覚情報まで交換できる.記憶が邪魔する先入観を捨てて,何歳になろうと学習すれば,その天才性は目覚めるのである.

 20世紀において,人間の運動能力に機械が対峙したように,21世紀は,思考能力との対峙が起きる.思考・判断をプログラム化したコンピュータ・システムが情報収集を極端に向上させ,人間に代わって個々別々の宣伝,誘導,勧誘を図ることになる.高度な理論化は技術的発展を促し,両刃の剣となってリスクを生み出していく.森羅万象の進化と淘汰がそうであるように….

 社会システムを人間的見地からデザインし,共有するには,関係する情報の隠ぺいや独占を避け,遺伝子の複製のように,社会を支えるあらゆる個人に情報の共有が必要不可欠となる.これは,情報処理の天才ゆえに可能なことであり,平等のための責務である.

技術革新と社会改革.それは,ITC(情報通信技術)の普及に見られるように,慣習化した生活に一時的な混乱や崩壊を及ぼす面もあるが,やがては,誰もが新しい時代へ移り住めるようになり,その文明・文化の発展に浴することができる.ただし,そのスピードは,社会人教育にかかっており,モノや機械の更新とは異なり,人間の世代交代の速度に準じざるを得ないところもある.

したがって,滞りのない変革には,大人も子供も,常に新しい教育情報に接していることが必要となる.特に高齢化社会においては,社会人教育の後進性は,国を衰退させることにもなる.

変化している状況に,だれもが目覚めることで,その国の先進性は持続される.天才性なくして,このような社会変革は望むべくもない.とはいえ,記憶喪失的とも言える社会基盤の激変は,精神文化の安定性を大きく損なう.

世代を超えた持続性とはどのような文明と文化であるのか?また,それらを支える思考基盤である概念形式は如何なるものかを熟慮する必要がある.
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相似表現と対応表現

表現は,シグナル(信号)として伝搬し,知覚され,呼び起される概念の構成によって意味ある内容として伝達される.

素描やサインやサインのように,視覚的抽象(簡略化)による「相似表現」や,文字を配列化して組合せた言語のような記号的抽象による「対応表現」は,視覚や聴覚によりシグナルが伝わっても,類似の形の記憶や,その言葉(名辞)の意味内容(概念)の記憶と照合することで解釈される.

対応表現は人為による取決めが基本であるため,自然形態が圧倒的な相似表現以上に教育による学習を必要とする.その表現構成には,自然言語のように一定のルールが形成されており,文典,楽典,そして,形典は,このようなルールの枠組みを表すことになる.

 概要でも述べたように,音楽の楽譜は,抽象的な記号による表現である.この抽象化は,聴覚的な信号を視覚的な記号に置き換え,消える音を消えない記号に対応させて成される.もし器楽曲を口ずさんで伝えたとき,それを相似表現と言うかどうかは,相似という概念を視覚的範疇に留めるどうかで判断が別れるが,記譜よりは相似的な表現である.その点で,形譜の座標符は,点や面を表すことになるが,同じ視覚を使い相似的であるがゆえに抽象的記号表現に見えにくいだけである.蝙蝠のように超音波を出せて反響定位の能力があったら,座頭市のように周りが見えるように聞こえるかもしれない.あるいは,夜行性による進化で,我々にも眼球ならぬ音球などといった高精度の聴覚機能をもつ耳が形成されていたかもしれないのだ.だが,伝達表現として音の透視投影を記述するのは人間の手業では難しい.やはり,視覚的なスケッチの方が保存性においても優れていることになるだろう.  Page Top

自然言語と人工言語から

現代では,日常使われている自然言語だけでなく,パソコン(ノイマン型のコンピュータ)に使われる人工言語(プログラミング言語)が前世紀後半より急速に進化し,現在でも日々更新・配布され,世界的に活用されている.

これらの人工言語は,縦糸のような科学に横糸としての役割を担わせることができる.しかし,コンピュータ(言語機械)のための言語仕様は,自然言語とは異なる.この抽象度の高い言語をより自然言語に近づければ,新しい活用方法や学習方法が生まれることになる.

音楽の作曲用ソフトは,視覚的にプログラムの流れが組めるビジュアル・プログラミングを導入して久しい.言語では言い表しにくい構成手順を面的広がりをもった図表として配置することで,複合的な構成プロセスや時系列上の同時性を認識しやすくしている.

CG用の3Dソフトでもこの手法が採用されつつある.人工言語は,シリアルな文体だけでなく,抽象的概念空間の可視化をしていくだろう.このような可視化ツールは,形式化による普及とマンネリ化という二面性をもちながらも進化していくはずだ.

この形典にCG(computer graphics)の俯瞰的視点からアプローチする人は,より簡潔に理解できる部分もあるだろう.専門的なのでここでは省くが,すでにCGプログラムは,OpenGLのように体系化されて公開され,すでに世界的に普及しており,さらに,OpenCV(コンピュータビジョン)のようなパターン認識をカバーする方向へと発展・普及しているからだ.Page Top

科学の信頼性から

文系,理系という言葉が,ありもしない心の壁を生み出す.人間が情報処理の天才であるがゆえの嫉妬的能力か?あるいは,天才の限界なのか?とかく境界領域の表現は,双方から弱点を突かれ,困難がともなうようだ.

それゆえに,ここでは,専門用語,曖昧な言葉,簡便すぎる表現を安易にも混在しているが,どうかご容赦いただきたい.異なるジャンルの方との対話のきっかけになれば幸いである.

自然科学でも解るように,すべてを微細な素粒子レベルで見れば,まるでゼノンの矢のごとく事実の検証には無限のステップが必要になる.抽象と捨象による上位概念という曖昧さが,俯瞰的な感性の複雑さを認識する為にはどうしても必要なのだ.

科学の分業は,学会の信頼性に基づいて成立する.したがって,近年の産学共同研究は,難しさを抱えている.もし,科学が権力やお金に振り回されれば,科学の終焉が現実となってしまう.だが,幸いにも自然を対象とする限りは,自然は人間にへつらうことはなく結果を見せつける.

問題は,社会科学の自律性である.

いまさらではあるが.芸術も同様だ.自然より醜い造形性には恥じ入るばかりである. Page Top

自然の創造力から

自然はこの地上で様々な造形を生み出した.そして,そこに生まれた生き物は,人間を含め様々な音楽性も生み出している.小鳥のさえずりは,同種でも個体差があるし,上達能力をもつ.しかし,何と言っても人間の創作である音楽は素晴らしい.そして,なんと多様であることか.

しかし,造形においては未だに自然が圧倒な構成力をもっているようだ.バランス感覚も素晴らしい.淘汰の賜物なのだろうか?その形態形成プロセスの複雑さは,遺伝子を発見したのちも,遅々として解明できない.だからこそ,実に不思議で面白いのである.
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造形表現と音楽表現の比較

造形表現と音楽表現の比較対象をすることは,基本となる知覚システムが異なるため困難である.しかし,おおまかな構成の仕組みにおいては,似ているところもあるので,本文の所々で問題提起をかねてとりあげている. 楽典との比較は,「形典がなぜ確立されてこなかったのか?」という謎を探る糸口ともなるはずである.

楽典と形典,どちらの表記法も厳密さを期待されるものではない.音楽のように程度をわきまえた抽象(定性化,定量化)の活力を造形でも用いるならば,様々な解釈が成され,多くの人が造形表現に参加できるからである.

論理性が先に立っては,遊びの基本といわれる真似・偶然・スリル・競争といったその場限りの楽しみすら壊れてしまう.
★参照:ルネ・カイヨワ『遊びと人間』 (競争・偶然・模擬・眩暈)

もちろん表現とは,現実を物理的に変えてしまう暴力的行動とは異なる.表現行動とは,情報発信による問題提起であり,受け手の解釈と判断によってのみ意味をもつ表現となる.

世間の都合の善し悪しなどは,美醜を極める芸術的表現においては無関係とも言える.芸術において神話が永遠に生き続けるように,表現のルールは人々と共に長い命をもつはずである. Page Top

ここで簡単に表現過程を比べてみよう.音楽表現では,発想と構成を依頼者(sponsor),作曲者(composer),作詞者(writer)が行い,楽譜よって記された記譜に演奏のための編曲者(arranger),指揮者(conductor),演奏者(performer)の解釈が加わりつつ,最終の解釈者である鑑賞者(appreciator)にリアルタイムで情報が伝達され,終了と同時にその表象が完成する.

造形においては,一般的に発想と構成を依頼者(sponsor),創作者(author, composer)が行い,造形譜よって記された記譜に実制作のため監督(director),実制作者達(performers, actual production, the construction)の解釈が加わり,そして最終の解釈者である鑑賞者(appreciator)へと最終的に表現が伝達される.

絵画の場合などは,創作者,監督,実制作者が同一人物で,音楽で言う自作自演であることがあたりまえとされている.ただし,多くの場合登場する自然形態は作家自身の造形物ではないので,自然が創作者であり,画家がその形(形譜)に解釈を加えたイメージの実制作者である.

命のもつ個性とは,己をいかにパフォーマンスしているかということでもある.それを更に俊敏に描き出してしまうロートレックのような筆致は,個性という表現解釈の極地ともいえる.生物という造形表現が,その個体自身の自己解釈によって表現され,その個性的表象をみごとに見抜いて絵画という全く別の素材によって永続的に表現してしまうのであるから,それは描かれた当人にとっても実に楽しいことであっただろう.模写との意味合いの差はここにある.Page Top

表現の伝達

音楽の場合は幸いにして再現性の確保の為に書き留められる記譜が広まったと考えられるが,美術では表現された作品は持続的に発信し続けるため,素描のような記譜が公表されることは少ない.だが驚くべきことに,生物である我々自身が,どうやらDNAという記譜の賜物であるらしい.

進化を伴う柔軟な継承を支えていくには,やはり複製時に抽象化が成されていたのである.はたして,卵子自体やその環境差で,あるいは,メチル化や無数のRNAの断片からDNAの解釈の差が生まれるであろうか?門外漢である私は,その研究成果に興味津々である.いまだに謎を秘めた自然の記譜システムは,造形譜の試みなど失せさせるほどのリアルで圧倒的な活力をもっている.
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表現法の伝承

 その規模や持続に関わらず,芸術の素晴らしさは言うまでもないが,その表現法の伝承のむずかしさを身もって体験することは痛快でもある.だがたとえ拙い技法でも,己の身体性を駆使した表現は,掛け替えのない時の証となる.

日常の見聞きできる事象の伝達に関しては,言葉と共に複写や録音などの複製技術に誰もが支えられている.だが,心の表現を支える内発的動機と技能を継承するには,表現者自身になりきる以外に方法はない.

表現の練習には内発的動機が大切であり,美的な形式や技法は動機を誘発させる環境特性に過ぎない.記譜が曖昧さを旨とするのはその内発性を尊重するからであろう.人々を模倣から内発的解釈による主体的表現へと導くには,抽象性を保つ記譜の存在とその公開が大きな貢献をしているのである.

芸術表現の伝承には,稽古(実習)を取り巻く独自の環境が形成され,文や譜と共にアフォーダンスのごとき効果をもたらす.文化的継承ともなれば,その環境の複雑さは言葉では言い尽くしがたいことであり,その解釈も同様である.

いずれにしろ,文化の重さとは,海のように測りがたいもので,形典や形譜は,そこに投げ入れられ,ともに揺らぐ網のようなものにすぎないのだ.
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楽典と楽譜

 

楽典や楽譜に関しての知識は,大系化された様々な文献やホームページもあるので,そちらをご参照いただきたい.
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