複製の青い鳥に

 「一を知って 十を知る.」, 「吾唯足を知る」 

 いかなる道を歩もうと,如何なる世界に棲まおうと,「知」とはワームホールのように他者とを結ぶよりどころと思われます.
なんの根拠も無い方便ですが….

 たとえば遺伝子を組み換えるには,重イオンをぶつけて突然変異をおこさせるという,少々手荒でどこやら現代芸術にも思える偶然の選別と掛け合わせによる方法と,ノックアウトによるDNAの正確で局所的な確当部分を組み替る方法などがあるようです.

 どちらの個体も,その後の成長で“実演算”とでも言うべき生身の量子グリッドコンピューティングの結果に問題がなければ,「事実」として再び結実を迎え,完成するわけです.  

 この冗長なプロセスから見れば,きっかけとなる二つの企てと実行手法は,些細な違いとも思えます.結実の後は,命というものが基本的に継承している力によって平然と複製されるだけですから,その変位のプロセスは,痕跡すら残りそうにありません.もはや変革のエネルギーとプロセスは,結果のみの記号的継承として存在するだけであり,以後は淘汰に晒されていくだけなのです.これは淘汰同様に,あまりにもクールなシステムです.

 この原因となった組み替えの手法を曖昧かつ敬意を込めて指し示すのが創造的な「感性」とか「直感」という暫定的概念なのでしょう.これらの言葉がなぜいま危機感をもって使われるかは,物質レベルだけでなく精神的表現のレベルにおいても膨大な複製がなされ,「多様性」や「地域性」の淘汰が懸念されているからです.Best One も Only One すらもあっという間に複製される現代.心の拠り所を失ったと思っても,そのこと自体が面白おかしく複製されていくありさまです.

 私たち生きものとは,もともと全てを知り尽くしてから死をむかえるわけでもなく,改革的変位への情熱や,複製という驚異的で誠実な継承への意志を持ち合わせなくとも,平然と生死を受け入れ,一つの命として生きているのが事実です.いつまでも好奇心を持ち合わせている人にとっては,新しい世界を見たい,分かち合いたいという衝動を消せるものではありませんが,現実は一瞬ごとに過去となり,好奇心が冷静に真正面から自己の分析へと向かうことは希なのです.そんなときなんらかの手法で自己より外在化される表現は,他者と同列にその好奇心を受け留め,自己の存在を知るきっかけをつくります.実はそれこそが自己表現への糸口でもあるわけです.そして自己による自己表現こそアイデンティティーの柔軟な拠り所となるわけです.そもそも物質的複製の上に成り立っている命.いつまでも複製を嫌っていても,自己の存在を否定する事に他なりません.無意識な物質的複製がら生まれる精神的複製がどのような生涯を経るかは,その人の意志の力,複製に支えられた自己表現力にあるのでしょう.

 脳自体の能力としては,現在の細分化された職業的適応にはすでに限界を露呈しているようで,芸術も科学も,本来は難なくこなせる脳の可塑性を今一度見直し,産業効率の向上に振り回されない生活主体の文化としてのデザインが必要なのでしょう.100年前までは,情報科学など普及していなかったわけで,未知の科学的対象は離散的世界をみれば無尽蔵にもおもえます.世界は,見方で見え方が変わり,生き方も変わるのです.「組み替え」こそ希望の星です.そしてそこにこそ現代の青い鳥の影が見え隠れしているように直感する人もいるでしょう.もしそれが解れば,青い鳥はDNAのごとく平然と複製され,使い捨てられてゆくのでしょうか?多分その心配は無用でしょう.そもそも一つの「いのち」とは,すでに組み替えられ,複製され,継承された一羽の青い鳥であるからです.


 とべとべ複製の青い鳥 空の青 海のあおにも染る心もて 

 視野一杯に おのが影を探せ

 地の果て あおき海にもその影を映せ

 いつしかその影に降りたちて 空一杯の新たな継承を見ん



080310

isi

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