大いなる自然

それは,
ある聡明なる頭脳とその信奉者が
考えた
「神の理性 God's reason」
ではなく,
 宗教の内で,興味をもてそうなのは禅宗だ.とはいっても,およそ門外漢のわたしであるから,独断と偏見をもっての発言だ.理性より悟性ヘの「確信」がもうすでにここにある.それは一刹那の確信と言うべきだろうか.
人間が,
ただひたむきに
求めてきた
「機械的理性 Mechanical reason」

「論理的思考 Logical thinking」
でもなく,
 決して論理性を非難するつもりなどない.必要条件だと考えている.だが,十分には程遠い.なぜか?それは,あまりにも冗長となってしまったからかもしれない.機械的というか,いや今ならハイテク的とでも言うべきか,もう少し反応の速い現実感,身体性を伴なう自分の生物的生き様に対峙する俊敏な知性を求めたいが,それは確信という誘惑にすぐに染まってしまう.科学の果てしない旅路は,客観性という基盤に築かれた信頼の舗装路である.だがこの道は,事実からの抽象であり,科学的偏見,分裂したな観点への誘惑でもあるようだ.そして,自然自体も,どうやら起点より分岐したまま収束せず,絶滅をも伴う多様な淘汰という,恐るべき自由への突進でもあるようだ.

ましてや,
「人間的理性 Humane reason」
でもない.
 「人間的」,,,実に曖昧な言葉.この曖昧さが長所だ.これが確定的概念となると,もう過去という記憶の暴力,あるいは無知蒙昧と紙一重となる.「人道的・・・」などと言い張るように,その方便は,実に謙虚を装うのだ.

嗚呼!
ゆめみる いのち
冷徹で我々の存在を,
今日は許している

「自然的理性 Natural reason」

 自然に命をもらい,存亡を重ねながら文化を持続する.地球という自然のなかで最も夢みがちな場所が,人間という形態をとった部分のようだ.ならばつまらぬ破壊を止めて,「人類は地球の夢を託されている」ぐらいの気概をもって生きていきたいものである.
おもはば36億年
あめ,つち,かぜ,

息吐し生けるものと共に
思考せる
まろき

汝に栄えあれ
 存在・認識・行動
これが同時で一体なのが物質であり,適度な判別を伴なって遅延をもって行動するのが生命,熟慮へと認識が夢想するのがやはり精神であろうか.だがそれにしても自然は美しい.人間の創造力とは,それに勝るとも劣らぬようでありたい.世界文化遺産が自然が生き,人間が生きた証であるならば,われわれは,現存する一惑星の上で何を花とし,どのような証しを残すべきであろうか?「無」を残す勇気.その優しさに学びたい.




2004. 12. 25
2007. 08. 07

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「OFF CENTER] Stainless Steel 1996