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更新:08/09/30 >>09/12/18>> 20/10/22
■形典 / ●造形構成について

●造形構成について

 形典における造形構成とは,作者が対象の形態を外見からどのように把握し,認識しているかを表す構成概念である.したがって,造形表現においては,享受する側の認識過程を考慮する必要がある.Page Top
1. 自然形態の造形構成,
    造形形式,構成譜

 造形構成の認識は,自然形態の形成プロセスを解明する分子生物学的視点とは異なる.なぜなら,その認識は,形態形成の生体内プロセスを知らずとも,対象の外部,内部の概形を観察し,記憶を含めた可視の範囲で構成を把握をするからだ. 数理科学的視点によるCGのアルゴリズム(計算手順)などは,外形的構成手順を主体とする限りにおいては,この可視的認識の範疇に含まれる.

 したがって,形典における造形構成とは,外見から形を素早く見分け,瞬時に記憶と照合する人間の本能や感性と関わる日常的なパターン認識が基盤であり,リンネの分類学でも造形形式としては十二分過ぎる自然分類の事例とも言える.表現体として存在する自然形態の造形構成の概要は,すでに,博物学的分類によってその造形形式がすでに体系化され,定められていたわけだ.例えば,生物的分類で抽象度の高いほうから現代人を分類すれば,真核生物ドメイン/動物/脊索動物 / 脊椎動物亜門/哺乳/サル/ヒト科/ヒト(Homo)H. sapiens といった分類になるが,形典の視点から見れば実に完璧なな造形形式の分類と言わざるを得ないだろう.かたちの認識過程の分類と現代の進化過程の分類とが異なる場合もあるわけだが,形典は,認識過程に注目した人為的分類形式が解りやすい.

 これらの分類において,例えばヒト科にはゴリラ属もチンパンジー属も含まれるわけだが,ヒト科としての形譜があるとすると,これは抽象度が高く,少々曖昧すぎて解釈がいかようにでもなってしまう.したがって,この属あたりを境に,より抽象的な記譜を構成譜と呼ぶことにする.もちろん,もう少し解りやすく,形の科譜,形の亜門譜などと記すこともできるであろう.造形の観点から観る地球の三界(鉱物界・植物界・動物界)は,圧倒的な複雑さと多様性をもっている.そう考えると,人間の造形力は,まだまだ自然の模倣に過ぎないようだ. 180214 isi Page Top

     

2. 美術における造形構成

 美術における造形構成は,目に見える形態の多様な様相から民族性のような歴史的経緯を含む内面性の表出まで,その要素・要因の複雑な連関をもっている.したがって,表現体(作品)とその解釈が生みだす表象にも,伝統と歴史を踏まえた美学的観点から個人的志向まで加味されるため,難解とも思える探求と多様な評価が重ねられてきている.

 このように作品に関わる客観的解釈は実に多様であり,声高に言われる美の評価は,ときには権力や権威への自発的服従であったり,まさにパトロン自身の感性の表明だったりもする.信心や感情となれば個人の自由であるので,いかなる評価も尊重すべきであろう.だが,科学的知見となればどうなのであろう?

 ピカソだったろうか?画家はこう言ったそうだ…「どうしてバラを見て理解しようとするのだろう?バラは見て感じるものだ!」

 かくして,客観とは統計的主観を含めざるを得なくなるようだ.Page Top

3. 造形構成の理論化?

 往々にして造形構成の情報理論化は,あるわけもない美的価値判断の客観化と混同される.芸術を情報理論として一網打尽に捉えてしまおうといった心無い試みや,かたや信条にかかわる問題として一切の論理的構成から目をそらしてしまう頑固さが若者たちを未だに惑わせている.

人目を引く「デジタルかアナログか?」などの二律背反的問いかけが,デジタル的判別そのものであり,事の本質を正視しない風潮を作り上げてしまうのだ.

 直流,交流,脈流(パルス),これらをみごとに変換・調整するのが生体や今の科学技術の日常である.思考方法も同様な手法をもつが,無精でいればたった一度の二者択一が生涯の生き方となってしまう場合すらある.

 芸術とは心と命の統合的表現であるから,論理的枠組みに収まることではないし,論理性を排除することでもないのであろう.確信の誘惑を排除しながら,曖昧さが安定へと変わる仕組みを模索する他ないようだ.

4. かたちのリテラシー

london tube
ロンドンの地下鉄路線図

 

 

形の読み・書き・考案(デザイン)

  目覚めて物事を知るには様々な手順がある.対象がまだみえないときは耳を澄まし,香りを感じ,目を開きキョロキョロ見回しながら全記憶と照合し始める.なんらこれといった変化がなければ,またうとうとと眠ってしまう場合もあるのだ.もし妙に騒がしかったり,日差しを感じて静かだったりすると,「しまった,遅刻だ!」なんて場合もある.

ようするに,これらの知覚は,記憶と照合されながら認識されるのである.毎朝,ほんとうに一瞬で己に目覚めるのだろうか?

「何時だろう?」と時計を見るときは厄介だ.まず時計には見方,読み方がある.共通の時刻というものは“本能”ではなく,学習しないと認識に至らない.一日を24等分割し,番号を振って一日の中の時の位置を表す約束ごとだ.約束は決め事であるから知らなければ解らない.時計の文字盤は面白い.一日を午前午後に分けて,さらに12等分割している.円を六等分するには半径で円周を切っていくだけだ.その半径を直交させてもう一度繰り返せば12等分になる.でもその中の5等分はどうするのだ?まあ目分量でも当たりは付く.(眼の能力は底知れない)

そんな分割法が文字盤を構成し,それから時間を読み取り,目に見えない時の位置を教えてくれるのだ.

「あー電車間に合わない!」.電車の運行には,時刻表という厳しいルールに基づいて作表された計画がある.電車の一日の時間デザインがこれで規定されている.との駅にも時刻表が掲示されているのだ.だが大丈夫だ.電車の方が遅れることもある.

余裕のない都心の鉄道は事故があると運行上の大変なやりくりをする.何が何でも他の交通手段を含めて一定人員を輸送し,夕刻の帰宅に備えて車両をやり繰りしなければならないからだ.彼らの持つ運行表は複雑だし,駅と駅の間には無数の標識,信号,センサーを配備している.非常時には無線の指示もある.こんなに危機管理が日常化したデザインをもつ組織もめずらしい.

若干話がそれたかもしれないが,見えない複雑な時間関係をこれほどしっかりと抽象化し図表化したコミュニケーションが日々を支えているのに,常に見えている造形物の複雑な関係は,記号化や図表化を駆使して整理されているだろうか?その点,どこの大都市も鉄道の路線図には苦労が見られる.同じ対象の抽象表現にさまざまなデザイナーが挑戦しているのがとても面白い.混乱した現実は,いかなる造形的センスをもってしても隠せないという例かもしれない.つまり,抽象化し,図表化し,デザインする前に現実が進行してしまっているのである.なんとも無計画である.これでは混乱は避けられないし,美しいデザインなど望むべくもないのである.デザインにも順序があり的確なリズムがあるのだ.社会も己も気が付いた時点から計画が生まれ,行動が始まる.やればできる.やらねばできない. PageTop

5. 統合的表現と解釈

 客観とは共通する主観でもある.客観と主観が共存する芸術的表現は,もともと造形芸術が客観性につながる抽象的な骨格をもちながらも,肉付きや肌理とともに感性にかかわるたたずまいやしぐさが加わることで,感受する側に異なった印象を与えることができる.

形典による記譜とは,この抽象的客観を記述したものだ.つまり,造形譜は,実制作者(パフォーマー)の解釈による再表現とその享受者の解釈に委ねられることになる.

 結局のところ芸術の価値は,解釈によって決まる.たとえアカデミックな価値観が先入観として働いても,それは真の感動とは遠い.芸術特有の普遍性とは,客観性を打ち破って解釈者の感性をストレートに刺激するものだ.

だからこそ,具象と抽象,そして主観と客観の織り成す芸術としての統合的表現を,客観的側面からのみ形譜により記譜するだけで,同等あるいはそれを凌駕する解釈と表現が読み手である実制作者から生まれ出るのであろう.

6. おおよその構成を程良く記述する

Adobe Systems
図 1‑1 THE MUSCLES OF THE HAND Fritz Schider An Atlas of Anatomy 1947

Adobe Systems
図 1‑2 DURER ,"PRAYING HANDS" Fritz Schider An Atlas of Anatomy 1947

 図 1-1は手の解剖図である.当時は3D-CADはないので,見えない部分は実際の解剖のようにして構造を解りやすく描いている.つまり,これは一般的な人間の手の極めて詳細な形譜と言える.

この考え方で述べれば,自然を描写した線画のようなスケッチは,2次元的形譜の一手法といえる.だが,輪郭を明確にし,内部組織の違いを筆感や着彩で解りやすく描写すれば,現実以上に鮮明さをもつイラストレーションとしての作品となる..

 図 1-2はデューラーの“祈る手”の複写画像である.誰もがイラストや解剖図で示す構成の手をもっているが,この“祈る手”のようなしぐさや見立てができるものではない.見える以上に物語る表現.これは芸術家のなせる技と思えるであろう.
  このような表現を生み出す統合的な視点は,科学の眼をもち,血のぬくもりを知り,祈る対象も祈る人の表情も写さず,まさに祈り手の心へと見る側の心をつなげる力を秘めている.目の高さに位置付けられた“祈る手”の手首から指先までは,空へと伸びる壮大な建築のようにも思える.私たちは,表情はさて置き,この形譜のような「手」をぶら下げて,日々歩いているのだろうか?果たして,形譜とは心強い造形への支えなのか?それとも只のもぬけの殻なのか?それは形譜の解釈次第のようである.

 表象は見る人の解釈に負うものでもある.見ているだけで自分の手の感覚が画中の手に重なっていく人もいるであろうし,手の甲の血流や肉付きから指先の反りへ,あるいは,合わされた手の温もりに思いを添わせる人もいるだろう.

 極端な表現をすれば,我々は融通無碍な形譜(地下鉄の路線図)のような曖昧な記号的記憶を脳内にももっており,いつでも詳細なイメージを着せ変えることができる.だが芸術的表現とは,見る側がもち合わせないイメージを励起させる力をもつものだ.

 造形作家による構成の記譜は,詩や音楽と同様に,認識の基準となる法則や表記法をほどよく定め,主観を元ににおおよその構成を記述することになる.概略であれ基本的構成が定まっていれば,解釈者は,その構成からイメージされるさらに緻密な肉付けや肌理を加えることで,より鮮明な解釈へと表現を高められる.

7. 表現と解釈

 文学は,朗読のようなパフォーマンスが加わる場合もあるが,ほとんどの場合が作者(著者)の記した文章(文字配列)を読者自身が直接読み,読者なりの解釈をしている.

 音楽においては作曲者(composer)に対し,演奏者(performer)の解釈と聴衆(audience)の解釈が加わる.自作自演もあるが,社会的には作曲家の著作権や演奏者の著作隣接権が認められている.

 現代美術では,作家のスケッチを解釈して作品として表現するのは,ほとんど作家自身である.

8. 作品と製作者

 建築作品では,映画製作などと異なり建設工事者の個人名が明記されることはめずらしい.造形デザインにおいても造形作家(建築家,デザイナー)による中間的表現としてのスケッチや図面などがあり,その実制作者(施工スタッフなど)がいるわけだが,生き方の違いなのか映像作品のスタッフロール(credit title)のように個人名が記されることは少ない.

造形構成の客観的形式を表す表記法は,寸法や図形の個別的な相似表現(機械図面と建築図面が異なるなど)によってすでに事細かく確立されている.詳細で具体的な指示が自由な解釈をゆるさず,実際の作り手の人格を見えないものとしているようだ.

現代では,これらの相似表現も数値や記号を活用した抽象表現(データ・フォーマット)となり,CAD,CAM,CAEによって機械を実働させるようになってきた. 造形デザインの世界は,技術革新によって一段と造形の自由度が向上し,より細やかな調整と加工が可能となっている.

これら一連のシステムも手伝って,形譜による表現と解釈が,買うばかりで疎外されがちな造形芸術との新しい生き方が生まれることを期待したい.isi

 

     
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